2024年4月27日土曜日

『美しい顔』


2カ月前に発売された『美しい顔』(内山田康著、春秋社、2024年)です。ついに本となりました。もっと早くに紹介すべきでしたが、どう書くかと考えているうちに、月日がどんどん経ってしまいました。
本文は、著者の内山田さんから私が原稿でいただいたものとほぼ同じですが、エピローグが、大幅に加筆・変更されたようでした。

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国家は核開発/原子力開発のマキネイションを動かしているつもりで、これに突き動かされている。これを止めようとしない私たちにやってくるものは何か?
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と、内山田さんは問うていますが、それは放射能ごみを補助金と天秤にかけて引き受けようとしている自治体や、放射能ごみを過疎の自治体に押しつけて知らん顔を決め込もうとする私たちに問いかけているのです。
ポリネシアでの核実験に関して、

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フランス政府は、独立派の国会議員だったポウヴァナアを放火犯に仕立て上げて本国(フランス)で投獄した後、協力的なポリネシア人たちに下々の仕事を与えて193回の核実験を30年間続けた。そのカムアッパンス(過去にした何かの応報が現れること)の小さな部分について、その前史から私は記述を試みた。この共犯関係は、日本でも社会的な関りの中に深く入り込んでいる。原子力発電所も、再処理工場も、最終処分場も、手引きをする人たちが大小の利益を得られ、それぞれの地元で蠢いている。成り行きについては誰も考えない。そうして入れ子が反復する。餌だけ喰って逃げようとしている人たちがいる。諦めた人たちもいる。私はある映像を何度も思い出す。それはインドのナルマダ渓谷でダムの建設現場で石を運ぶ痩せた男たちと女たちの姿だ。トライバル(先住民、少数民族)たちは労働者として雇われ現金を手にした。ダムが完成した時、長きにわたって生きてきた周囲世界が、意味を与えてくれた多様なものたちや神々や祖先たちや精霊たちと一緒に水没した。
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内山田さんは、本の表題を、当事者たちはすでに「罠」を知っているから、隠喩としての「美しい顔」にしたと言っていましたが、もしかして、「罠」の方がわかりやすかった?
そんな風にも思った『美しい顔』でした。

帯より






2024年4月26日金曜日

八郷の春


田んぼに水が入りはじめました。
4月の終わりから、5月半ばごろまで(有機農家はもっと遅いが)田植えが行われます。


普段はそんなに働いているところを見ないトラクターを、あちこちで目にします。


山には藤の花が咲いて、春たけなわです。




 

2024年4月25日木曜日

お風呂場のドアを交換しました

いつだったかhiyocoさんがお風呂のドアのパッキングを自分で交換した話をご自身のブログにUPしていました。
「そうか、パッキングは交換できるんだ!」
汚くなったドアを見ながら、いつかパッキングを取り換えようと思っていました。それがいつのまにか、ドアそのものを取り替える妄想へと発展して、ときおりネットでドアを見たり、幅や高さを測ったりしていました。
ある日夫に、
「お風呂のドアが汚くなったから取り替えたいんだけれど、既製品を買えば、ちゃんとサイズが合うかしら?」
と訊いてみました。
「あぁ、大丈夫だよ。でもドアだけは売っていないよ。枠つきで売っているから」
「枠まで取り替えるのは無理ねぇ。枠を取りつけてから浴槽のタイルを貼ったでしょう?」
「いや、枠も取り替えられるんじゃないか?」
そんな会話をしていたら、せっかちな夫が枠つきのドアを注文して、届いてしまいました。 
ドアまわりをきれいにしたいという気持ちはあったけれど、いざドアが届いてみたらつけ替えるのがおっくうに感じ、もともとパッキングの交換だけしたいと考えていたことを、思い出したりもしました。
ときどきラジオ・ショッピングで宣伝している、お風呂の清掃をお願いして、ピッカピカにしてもらった方がよかったかしら、いやいや、強い薬を使うだろうからそれはなかった。でも取り替えるのが面倒だ、などとぐずぐずしていて、半月ほど経ちました。
玄関に置いたドアは邪魔、GWには泊り客もあるということで、やっと重い腰をあげて、ドアを取りつけることにしました。


包んであった段ボールを外して、新しいドアをお風呂場に運んでみました。サイズはぴったりのようです。


古いドアを外しました。


どう見ても枠を取り外すのは無理です。地はコンクリートで、外側につけた木の枠は取り外せましたが、浴槽側はアルミの枠を取りつけてからタイルを貼り、木の壁を張っています。


蝶番は新しいものを、まずドアの方につけました。


枠側にも蝶番を留めつけて、ドアノブも取りつけました。


古いドアは、内にも外にもタオル掛けがついていて、そのタオル掛けの奥が、ずらすと風が通る、横に細長い連子窓になっていました。その連子窓は、タオル掛けが邪魔して、内側からも外側からも掃除できない困った存在だったので、シンプルなドアになってよかった、そこが一番嬉しいところです。

ところで、錠の受け金具も新しいものと取り替えたのですが、取りつけ位置が悪くて、最初はドアが閉まりませんでした。受け金具の位置をずらしたら閉まるようになったのですが、古いドアもきちんと閉まりにくかったのは、受け金具の位置が悪かったからなのでしょう、バタンと閉めてもきちんと施錠されてないので、シャワーするときやお風呂掃除をするとき、猫たちがドアを押して入ってこないよう、椅子で押さえたりしていました。


今度はちゃんと閉まるので、お風呂に入ってきたい猫たちのために、きちんと閉めないように気をつけなくてはならなくなりました。


もっとも、お風呂を使ってないときは、換気のためいつもドアは開け放しているので、施錠の時間は短いものです。





2024年4月24日水曜日

鎌いろいろ


骨董市で、まことさんの店に鎌があり、手に取ってみるとラベルにカシミールとありました。
さて、カシミールはパキスタンだったか、インドだったか?
この数年、骨董市には行ってないのに珍しく一緒に行っていた夫に訊くと、
「国境線がはっきりしなくて、どちらの領土かを争っているところだよ」 
とのことでした。
カシミールは山岳地帯ですから、これは稲ではなく麦を刈る鎌でしょうか。ぎざぎざの刃になっています。


刃と柄に突き刺した部分の間が曲げてあるのが気になります。硬い鉄なので使っているうちに曲がってしまったとは考えにくい。ではなぜここを曲げてあるのか、理由があるのかもしれませんが、まったくわかりません。


どの地域の鎌も、鎌は鎌。似ているといえば似た形をしていますが、地域によって用途によって特徴があります。
左はカシミールの鎌、あとの5本はタイの鎌です。
タイの鎌の左から、山岳地方の少数民族が陸稲(おかぼ)を刈る鎌、真ん中の2つはちょっと古い稲刈り鎌、丸っこいのは少数民族がアヘンを採るためにケシに傷をつける鎌、刃の上で採った汁液を練るので刃が幅広になっています。
そして右端は1980年代に、タイのどこの市場でも売られていた、どの農家にもあったありふれた稲刈り鎌、柄まで鉄でできています。


左からカンボジアの鎌エチオピアの鎌バングラデシュの鎌、そして穂刈りの鎌は小さいものがインドネシア、十字形の鎌はフィリピンのものです。
エチオピアの鎌以外は稲刈り鎌です。


鎌そっくりのこれらは、カーブの内側ではなく外側が刃になっています。
左のバングラデシュの草抜きはともかく、エチオピアの大きな鉄くぎを打ってつくったものは小さいのでどんな場面で使ったのか、用途不明です。
と、ここでもしやとひらめいて、割礼用の刃物を見てみました。


「やっぱり!」
外側が刃になっていました。釘でつくった鎌状の刃物も、割礼用かもしれません。
アメリカで次男を出産した時、医師に「割礼をするかどうか」訊かれて、割礼と言う英単語を覚えました。そして、初めて割礼が思ったより広く行われていることも知りました。





2024年4月23日火曜日

二人展

こんこんギャラリーで、おおやぎえいこ、さかいひろ子二人展を観てきました。
一昨年おおやぎさんだけで猫のイラスト展をしたときには、小さな額縁を買ったことがありましたが、昨年からはじまった二人展に行ったのは初めて、さかいさんとは織物教室でいっしょに糸紡ぎを学んでいる仲です。
さかいさんは、縄文時代を知るためのワークショップを定期的に開いたりしていますが、糸紡ぎも、縄文の時代にはどうやって糸をつくっていたのだろうという関心から習い始めたもので、紡ぎ車を使わず、錘(つむ)だけで紡いでいます。


さかいさんの描いた、茨城県から出土した縄文時代の土偶の数々です。


土偶は、写真だけで見ていると、どれも「縄文時代の土偶だ」くらいの印象しか残らないのですが、絵にすると違いも分かり、関心も出てくるものだとわかりました。


茨城県では、いろいろな形の土偶が出土していて、稲敷市から出た土偶は、考えられないほど胴が細いものだったそうです。


会場には、再現した縄文の道具や、


Oさんの家の庭からザクザク出てきたという縄文土器の破片などが並んでいました。
真ん中の土器は貝殻で模様をつけたもの、縄で模様をつける以前のものだそうです。


ワークショップも開かれていて、とても賑やかでした。


この八郷には、縄文時代にはたくさんの人が住んでいたようで、Oさんの庭だけでなく、我が家の庭、M+Mちゃんの庭などからも、縄文土器の破片が出てくるし、形が残っている土器や矢じりが出てきたところもあります。











2024年4月22日月曜日

缶の蓋に特徴あり


桐山染料の缶の蓋を見て思い出したのは、アイコクベーキングパウダーの缶です。
ベーキングパウダーの缶は、もう何十年もこの大きさでこの形、蓋は本体にはめ込むもので、見慣れたものです。


戦前のアイコクベーキングパウダーの缶も持っています。
アイコクベーキングパウダーは1932年からつくられはじめ、デザインは違いますが、蓋は昔からまったく同じ方式です。


戦前の缶は、直接印刷ではなく、紙のラベルが貼ってあります。ラベルには、
「代用食に國産ふくらし粉、愛国ベーキングパウダーを使ひませう」
と書かれていて、また、絵文字も散らして、
「水一合強+味噌10匁+砂糖少々ヲスリ鉢デスル 小麦粉100匁+愛国ベーキングパウダー4匁ヲヨク混合シテ スリバチニ入レ杓文字デネル 桃太郎ノ弁当ノ形ニ丸メテ蒸器デ十五分間蒸ス オトウサン、ボウヤ、ショウチャンモヨロコブ代用食労研饅頭デキマシタ」
と、レシピが書いてあります。
代用食とはお米のご飯の代わりに、小麦粉などを使ってお腹を満たすもの、労研饅頭(まんとう)とは、今では愛媛県松山だけに名前が残る蒸しパンのことのようです。当時、労研饅頭と言えば、全国的に蒸しパンのことを指したのかどうか、私は知りませんでした。

はめ込む蓋と言えば、トワイニング紅茶の缶は四角だったけれど、蓋は丸いはめ込み式だったと思い出してネットで検索してみました。
「えぇぇぇぇ!」
トワイニング紅茶の蓋は、今では全部上からかぶせるものに替わっていました。
あれはいつ頃だったでしょうか、日本には日東紅茶が席巻していたところにトワイニングが現れ、オレンジペコーとかダージリンとかいろいろあったけれど、アールグレーが衝撃的なおいしさで、アールグレーばかり飲んでいたころがありました。
もしかしてそれは、1970年代?
気がつけば紅茶は多様化して、原産国から直接の流通も盛んになり、ルイボスティーやハーブティーなども現れ、トワイニング紅茶はOne of Themとなり、もう何年も飲んでいません。


左の缶は、中身の生産国はインドだけれど品名はイングリッシュモーニングティーとだけしか記載のない、センチュリートレーディングカンパニーが輸入元の紅茶缶、友だちにもらったものです。
右の缶は骨董市で出逢ったもの、森永なので紅茶ではなくココアだったのでしょうか? 


森永製菓のデジタルミュージアムを見ると、1919年、日本初の森永飲料用ココアが発売されていますが、当初から丈の高い缶だったようです。となると、エンジェルの蓋の缶は、ココア缶ではなく、別のものが入っていたのかもしれません。


さて、桐山染料の缶は本体の縁が盛り上がっていなくて平らですが、古いアイコクベーキングパウダーの缶はちょっと盛り上がり、現行のアイコクベーキングパウダーの缶は縁が盛大に盛り上がっています。
背の高いベーキングパウダーの缶は閉まりにくく、無理やり押し込むと、開けるときマイナスのドライバーを使わなくてはなりませんが、それはずっと変わってない気がします。


紅茶缶の本体の縁は盛り上がり、古い森永の缶もちょっと盛り上がっています。


古い写真を見ると、捨ててしまった南アフリカのルイボスティー缶も、蓋をはめ込むスタイルでした。もしかしたら蓋をはめるタイプのお茶缶の製造は、もう世界から消えてしまっているのかもしれません。







 

2024年4月21日日曜日

ブリキ缶があったなんて!

豆奴印の桐山染料は、華々しい宣伝をしていたことがわかっている家庭染料ですが、ガラスビンではなく、缶入りもありました。


染料は、自然染料も化学染料も、色を堅牢に定着させるため媒染を行います。
木灰、ミョウバンなどを媒染材として使いますが、鉄で媒染することもあります。例えばススキで染めてミョウバンで媒染すると黄色になりますが、鉄で媒染すると灰緑色になります。つまり鉄分が混じると、黒ずんだ色になってしまうので、鉄媒染した鍋は、次に染めるもののために、しっかり洗っておかなくてはなりません。
半世紀ほど前には、染色用のステンレスの寸胴鍋は発売されてなくて、琺瑯(ほうろう)の鍋を使っていました。しかし、ちょっとぶつけて琺瑯がはがれて鉄がのぞいてしまったら、もうその鍋は思う色を染めることができないので、使うことができませんでした。
だから、鉄の缶に直接染料を入れていたなんて、化学変化を起こすに決まっている、ちょっと信じられないことに思われます。


かつて、ビニール袋などがあったわけもなく、染料は直接入っていたようで、赤い色が残っています。
ブリキ缶の影響がどんなものであったか、あるいはまったくなかったのか、興味津々です。


缶のラベルはなかなか格調が高いもので、唐草が素敵、豆奴印もついています。


桐山染料で、ブリキ缶がどのくらいの期間使われたのか、ガラスビン以前だったのか併用されたのか、失敗だったのか成功だったのか、どうだったのでしょう? 高さは蓋まで入れて4センチです。

桐山染料は今も大阪に健在して、ソメロンという名の家庭染料を売っているようです。
戦中戦後の、必要に迫られて家庭で染めものをした時代を生き抜いて、近年は卓上ろうけつ染め器、卓上絞り染め器などなど、趣味で染色をする人たちにターゲットを合わせて、生き延びていたようです。