2012年2月29日水曜日

ぜんまいで動く動物


掌に乗る大きさのひよこです。ぜんまいを巻くと、ぴょんぴょん飛び上って進むので、足が大きく、頑丈にできています。
1980年代のものです。

後に、イラストレーターだったか、 漫画家だったか、ぜんまいのおもちゃを集めている方がいらっしゃって、雑誌に、数え切れないほどのおもちゃに囲まれた写真が載っているのを見ました。
「こんなにいろいろあったのか!」
とびっくりしました。

当時はネットショップなどありません。その方は、おもちゃ屋さんを見かけると必ず入って、さがして、日本全国をまわって集められたようでした。

こちらは、そんな根気はありません。子どもたちとおもちゃ屋に行くことがあり、たまたま目についたら、しかも気に入ったら、買う程度でした。


ペンギンはねじを巻くと、ひょこひょこと二足歩行します。


猫は、しっぽがねじになっています。
ねじを巻くと、しっぽが巻いた方向と逆さに回ります。その大きな尻尾が床につかえて邪魔になるので、猫の身体がじょうずにでんぐり返しできるようにつくられています。

ちょっと走っては、ゆっくりでんぐり返しをして、またちょっと走っての繰り返しです。


というわけで、ぜんまいの動物は三つしかありませんが、今も健在です。
後ろは、1960年代の、輸出用のぜんまいのおもちゃです。



2012年2月28日火曜日

お雛さま


季節にだけ、箱の中から出して飾るお雛さまのほかに、常飾りにしているお雛さまもあります。

全部常飾りにするスペースはないし、雛は傷むし、第一、それではお雛さまの飾り方に外れます。でもちょっとさびしい。それで、傷みにくいお雛さまだけ、常飾りにしています。

そんな常飾りのお雛さまたち。
秋田県横手の中山人形、樋渡義一さんのつくられたものです。
中山人形は、仕上がりがつるつるで、色褪せないのが嬉しいところです。


小指の先ほどの豆人形たち。京都のものだったでしょうか。


猫雛たちは、はっはっは、


ふっふっふ、



ほっほっほ。



もう少しで忘れるところでした。
鳥取の流し雛です。





2012年2月27日月曜日

猫好き



たちをつくった、鈴木若弥さんの猫です。素焼の猫に、鮮やかな彩色がなされています。

近頃、招き猫作家たちの作品は、大きいものだと、平気で五桁の値段がついています。中には六桁のものまであり、全般的に高すぎると思っていますが(買わないから、関係ないのですが)、鈴木さんの猫たちは妥当な値段であることも、嬉しいことです。

鞠と魚、猫の好きなものがセットになっています。


魚は、頭に乗せることもできます。



豪華な衣装!


もう一つは、招いていない猫です。

鈴木若弥さんを紹介してくれたSさんは、断然お座り猫派です。
「伸びをしている猫はただの猫だけれど、座った猫には、猫を超えた毅然とした意思が感じられない?」

どうでしょうか? ただの猫もかわいいと思うのですが。


これが、Sさんのお座り猫たちの一部です。


鈴木若弥さんの人形には、捨て猫を飼ってしまう優しいお人柄がにじみ出ています。

お連れ合いを亡くされ、息子さんも亡くされ、ご自身も大病なさって、制作はもうやめようかと思ったこともあったけれど、やはりつくっていれば楽しいこともあると思い直されたとか。

3月11日は息子さんのご命日で、昨年はお墓参りから帰られたところで地震に遭遇され、神奈川県の藤沢市にお住まいですから、このあたりよりひどくはなかったものの、お孫さんを抱いて、机の下に入られたそうでした。


2012年2月26日日曜日

水切り籠


1960年代終わりごろにアメリカで、ラバーメイド社のワイヤーにコーティングされた、食器水切り籠に出逢ったときは、目からうろこでした。

当時、日本ではどんな水切り籠が出回っていたのでしょう?よく覚えていないのは、アメリカに行く前の二年間、ガーナで暮らしていたからです。ガーナでは、洗ったお皿は、流しの横のタイルの上にそのまま置いていました。

ラバーメイドのよくできた水切り籠に問題があるとすれば、たくさんの食器を入れることができるので、そのまま放置しがちになり、ついつい水切り籠そのものを洗うのが、間遠になるということでした。
また、よくできたビニールコーティングですが、包丁で傷ついたりすると、そこから傷みます。そのうち日本でもラバーメイドの水切り籠が手に入るようになったので、買い換えたりして、二、三代お世話になりました。

やがて、日本の水切り籠といえばプラスティック製品一色だったのが、ステンレス製の水切り籠が出まわるようになりました。汚れにくいだろうとステンレスの水切り籠も試してみましたが、硬すぎて、気をつけていてもお皿に衝撃が伝わるので、なじみませんでした。

試行錯誤の中、竹籠に戻したことも何度かありました。
竹籠で水切りするは楽しいのですが、二つ用意してまめに籠を乾かしても、どうしても黒ずんでしまいます。そう長続きはしませんでした。
 

そんな我が家で、今のところ決定打となっているのが、アルミの水切り籠です。
今話題のギリシャ製です。四人に一人は公務員。観光業しかない。思い切った意識の転換をしなければ国がつぶれても無理はないと思われているギリシャ(失礼)にも、製造業が健在でした。


アルミはステンレスより柔らかい上に、固定されていないバーが心もちゆらゆらと動きます。


受け皿は厚みがないので、 こぼれた水をそのまま放置しておくことができず、毎晩洗うか、水気を拭き取ります。大勢の客があって、相当数のお皿を洗ったりするときは、一度か二度、受け皿にたまった水を捨てます。
水切り籠そのものが軽くて細いので、シンクにもらくらく入り、洗うのが苦になりません。

食器洗い機?もちろん持っていません。好きな食器を手で洗うのが好きです。



二段になっているとはいえ、食器を多くは置けないので、洗った食器はさっさと拭いて片づけなくてはなりません。

製造したのはMastという会社で、素敵なアルミのゴミ箱もつくっています。
Mastのゴミ箱も欲しくて、いろいろさがしましたが、もう何年も前から、水切り籠もゴミ箱も、日本には輸入されなくなっています。
もしかして、ギリシャ本国でも、会社がつぶれてしまったのでしょうか?
だとしたら、惜しいことでした。

追伸:
夫が調べてくれたら、水切り籠の方は、輸入再開されたようでした。m(_ _)m



2012年2月25日土曜日

食卓ができました


一昨日、製作中の食卓が、やっとできあがりました。

これまで、机はつくったことがないし、木工の教科書も持っていません。なんとなくこうではないかと思いながらつくりました。
さすがに、脚は組み立てながら同時に甲板につけるのか、それとも足だけ組み立てておいて甲板にはあとで取りつけるのか、決めかねて、お隣の木工家のKさんに聞きに行きました。


すると、脚だけ先に組み立てておいた方がいいとのこと、まず脚どうしを幕板でつなぎ合わせました。


確かに、組み立てた脚を甲板に合わせてみたら、ほぞ穴の位置が、微妙にずれていました。
穴を調整して、脚(と幕板)と甲板を固定しました。



これが今まで、三年間使っていた、息子のだった食卓です。
肘つきの椅子の肘が食卓の幕板にぶつかって、使っていないとき、椅子が食卓の下に収まりませんでした。


そして、新しい食卓。ちょっと長くなりました。
ちゃんと椅子が収まるので、これまで納戸にしまっていた、使わない椅子も出しておけるようになりました。
めでたし、めでたし、と言いたいところですが、問題あり。

せっかく椅子を食卓の下に収納できるようになったというのに、夫はいつも椅子をきちっと収めず、出しっぱなしです。
それも、一脚だけでなく、二脚も!
まったくぅ...。


2012年2月24日金曜日

恵比寿大黒


イザベラ・バードの『日本紀行』 上下二巻(講談社学術文庫)を読むと、明治初期の日本の様子が、映像になって目の前に浮かんできます。
彼女が旅をしなかったら知ることのできなかった、開国後間もない当時の生活には興味が尽きません。

ただ、彼女が恵比寿大黒を、「富の神」と苦々しく思い、何度も言及していることだけには、ちょっと、異議を唱えたくなります。

『日本紀行』は、1878年(明治11年)に横浜に上陸し、東京から徒歩と馬で東北に旅した、イザベラ・バードの見聞録です。
子どもの遊び、農民の暮らしぶり、食べ物、自然の様子など、いろいろな事象を詳細に観察していますが、そのなかに、どこ家にも恵比寿大黒が祀ってあり、人々が全身全霊で信仰していたとの記述が何度か出てきます。
彼女は、恵比寿大黒を、お金持ちになりたいという、物質主義の象徴とだけとらえているようでした。人生は、仏教なり、キリスト教なりを信仰して、もっと深く(哲学的に)考えなくてはならないと、嘆いています。

イザベラ・バードは当時の人ですから、もちろん敬虔なキリスト教徒でした。当時、日本に来ている西洋人の多くが宣教師であり、イザベラ・バードは彼らとも親交がありましたが、他の外国人と比べると、異教である仏教をよく知ろうとしている様子がうかがえます。

そんな彼女から見ても、恵比寿大黒信仰は、容認しがたいものだったようです。



でも、私には恵比寿大黒信仰は、物質主義の表れだけだと、思えないのです。大漁を願う漁労者の願いであり、大黒は豊作を願う農業者の願いであったと思われます。
もちろん、人々は大漁や豊作を森羅万象にも祈っていたと思われますが、形として、家にお招きしてお祀りしていたのが、恵比寿大黒だったのではないでしょうか。

自然災害は珍しいものではなく、シケに見舞われ、凶作にも見舞われる中で、
「どうか、無事に漁ができて、大漁であって欲しい」
「どうか、豊作であって欲しい」
という気持ちが、恵比寿大黒信仰につながったと思われます。


しかし今では、恵比寿大黒に大漁を願う心、豊作を願う心はすっかり失われてしまいました。
そんな、行き場を失った恵比寿大黒が、骨董市などには多数出回っています。

我が家の神棚の、その真ん中に祀っている、お社つきの木彫りの恵比寿大黒も、そんな骨董市からお迎えしたものです。


柔和なお顔の恵比寿大黒。
裃が後ろに跳ね上がっているのが、天使の羽のように見えてしまう、恵比寿さまです。


山形県米沢市の相良人形の恵比寿大黒。


招き猫の恵比寿大黒は、人々の恵比寿大黒への思いの変遷も知らぬげに、陽気に踊っています。
ちなみに祖母は、恵比寿さまのことを、「えべっさま」と言っておりました。



2012年2月23日木曜日

ヘンゼルとグレーテル



磁器でできた、ヘンゼルとグレーテルの人形です。掌に乗るほど小さなものです。
フィリピンのマニラの骨董屋で出逢いました。
もう、30年以上前のことです。


お菓子の家の前で、魔法使いのおばあさんが、ヘンゼルとグレーテルを誘っています。

 

そして、入ろうかどうしようか迷っている、ヘンゼルとグレーテル。
いったいどこの国でつくられた人形でしょうか。手彩色が素敵です。

磁器ですから、フィリピン製ではないと思います。
グリム童話と言えばドイツですが、ドイツの人形でしょうか?



ヘンゼルとグレーテルのお話は、長く続いた飢饉で食べられなくなった母親が、口減らしに子供たちを捨てたお話です。

穀物が周期的に凶作になっていた、ヨーロッパの慢性的な飢饉を救ったのは、新大陸(アメリカ)から、16世紀末にヨーロッパにもたらされたジャガイモでした。
はじめのうちは、「聖書にない作物だから」と食べるのを拒んでいた人々も、 やがてジャガイモで命をつないでいくようになりました。
17世紀半ばには広く普及したジャガイモは、やがて、ヨーロッパ中でなくてはならない食糧になりました。
18世紀後半にアイルランドを旅した人の記録に、アイルランドでは、一年のうち十ヶ月はジャガイモとミルクを食べ、残りの二ヶ月はジャガイモと塩を食べているというのが残っています。

お菓子の家は、子供ならだれでも、
「本当にあったらなぁ」
と思うものです。
この人形のお菓子の屋根は、まるでチョコレートのかかったビスケットのように見えます。でも、ジャガイモのないヘンゼルとグレーテルの時代には、チョコレートもありませんでした。

チョコレートも新大陸から紹介されたもので、17世紀にはヨーロッパの王侯貴族の間でぜいたく品として好まれてるようになりましたが、それは板チョコではなく、飲み物のココアでした。


2012年2月21日火曜日

イギリスのバスケット


70年ほど前まで、缶詰の缶以外、ほとんどのものは、葉っぱ、紙、箱、そして籠に入れられて運ばれました。
だから、世界中に、材料も編み方もいろいろな籠があったのでした。

人が火を使って人になってから、いろいろなものを捨て、いろいろなものを新しく取り入れてここまできました。
しかし、この70年の、あまりにも速い変わりよう、とくに1960年代からの変わりようは、いろいろな手仕事を、永遠に消し去ってきました。
私たちはいま、暮らしに必要なもののほとんどを、自分の手でつくれない時代に生きています。


ラタンでかっちりと編まれた、イギリスの籠です。
持ち手や縁に補強のために巻いてあるのは、厚くて強いビニールのテープでしょうか。初めて、イギリスの籠を見たころは、そのどぎつさが嫌いでした。
「安っぽい!」
でも今では反対に、その鮮やかなアクセントが気に入っています。同時代の、色使いのない単色の籠がさびしく見えるほどです。
1950年代のものです。


この籠は、お皿や弁当箱を入れて、ピクニックに行くのも楽しjのですが、編みかけのセーターなど入れておくのに最適です。散らかった感じがしなくて、どこに置いておいても邪魔になりません。
でもそのうち、籠が置いてあることに目が慣れて、
「早くセーターを編みあげて片づけなくっちゃ」
という気持ちが失われていくのが、欠点と言えば欠点です。


これは、上の籠とはちょっと編み方が違う、ヤナギの枝の籠です。
持ち手と縁は、ビニールテープではなくて、彩色したラタンで仕上げられています。
1940年代のものです。


側面には、もともとはもっと華やかだったと思われる、ラフィアの花飾りが残っています。

この籠には、つくりかけのポシャギを入れています。もう三年越しでつくっているもので、まだ半分くらいしかできていません。
そこいらに散らかっていると焦りますが、今ではほとんど忘れ去られています。


長年鎖国していた日本でさえ、明治の初めにはすでにラタンが入ってきています。局部的にいえば、もっと前から入っています。
「日の沈まない国」と言われたほど植民地を持っていたイギリスですから、熱帯の産物であるラタンやラフィアが入ってくるのも、ずいぶん早かったと思われます。

そのイギリスでは、ラタンのなかった時代や、ラタンが入ってきてからも、籠の材料として、ハシバミ、ハコヤナギ、ニレ、ヤナギなどの若枝(ひこばえ)やそのへぎ材(割材)が使われました。
また、トネリコ、カシ、クリなど広葉樹のへぎ材の籠や、麦藁の籠もつくられました。

へぎ板の収穫籠、麦藁の播種籠や養蜂籠、ダッチエルム病で全滅してしまったニレの牡蠣籠など、使う人の手でつくられた美しい籠たちは、今でもつくられているのでしょうか?



瓢の皿


お皿に、ひびが入っていました。
二人暮しですから、重ねてあるお皿は、ついつい上の二枚を使います。下のも出してみたら、知らないうちに割れていたのでした。
ただのにゅーだけではなく、汁ものを入れると漏ります。

理由はひとつしか考えられません。昨年三月の地震の時、激しく上下に揺れて、ぶつかり合い、ひびが入ったのでしょう。
 

このお皿は、知人に連れて行っていただいた京都東寺の骨董市で、1970年代に出逢ったものです。
瓢(ひさご)から盃に酒を注いでいる絵が面白くて、五枚揃いで買いましたが、すでに一枚は割れてなくなっています。
右下の一枚も、長い間縁が欠けていましたが、ここに来てからお隣のJさんに金継ぎしてもらいました。


しかし、週三日働きに行くようになって、自分の制作時間の減ったJさんに、これ以上お願いするのもはばかられます。
さりとて、自分で金継ぎすれば、漆にかぶれてしまいます。

というわけで、割れたお皿をどうしようか、しばらくは眺めながら思案するしかありません。


裏にも、瓢の絵がついています。


瓢と言えば、もうひとつひょうたん模様の小皿を持っています。


好きな小皿ですが、見るたびに、
「どうして、ひょうたんと蛇なの?」
と、思ってしまいます。

2012年2月20日月曜日


ちょっと昔の「かわいい」猫たち。
小さいころ、自分で持っていたわけではないのに、なんだか懐かしい気持がする猫たち。そんな猫たちに骨董市でひょっこり出逢うことがあります。


「かわいい」も、時代とともに変化しています。
今の「かわいい」には、こんな感じはありません。 


ちょっと、おたふくさんを思わせる猫です。

骨董屋さんが、これも数のうちと並べた、おまけのような猫たちなので、値段はどれも500円もしません。


 一つ、また一つと、だんだん、お仲間が増えてきました。


誰か家の、茶の間にいた猫たち。でも、たぶんそう注目もされていなかった猫たち。
薄くてもろいのに、割れないでいてよかったね!