2012年7月29日日曜日

もんぺづくり

いつもは忙しくて身動きの取れない妹が、やっと休暇を取り、ロンドンに留学している息子を訪ねるというので、一昨日から、妹と同居している母が我が家に来ています。
思い起こせば、結婚で実家を出て以来、お産にも帰るということがありませんでしたし、母が長く自分の家を空けることもありませんでしたから、母とは久しぶりの長期の(といっても半月)同居生活です。

母が我が家に来る直前、仙台に住む下の妹から珍しく、
「インド綿を見つけたので、もんぺを縫ってくれる?」
という電話が、あったそうでした。
かつて母は、寒い冬も母のつくった木綿のもんぺしかはかないという(変わり者の)妹のために、100本以上のもんぺを縫いました。
今は足が悪くて、歩くのもままならないくらいなので、もちろん縫うことはできません。

ずっと昔、母がまだ大量のもんぺを生産していたころ、
「私が死んだら、ちーちゃんにもんぺを縫ってあげてくれる?」
と聞かれたことがありました。
母のもんぺはポケットが二つつき、居敷当て(お尻当て)、ひざ当てもついた面倒なものなので、とてもとても。
そのときは丁寧にお断りしました。

という経過があり、母から、今回縫ってあげられるかどうかと、電話をもらいました。
母も我が家に来ることだし、今回だけならと承諾すると、その日から母のうきうき人生がはじまったようでした。
長い間他人の世話にばかりなり、何もできなかったので、久しぶりに人の役に立つことができると、すっかり気持ちも高揚して、裁縫道具から、古いつくり方ノート、ウエストに入れるゴム紐まで持参して、一昨日やってきました。


ところが肝心の、妹からの布が届いていませんでした。
肩透かしにあってがっかりする母は、「早く布を送れ」というはがきを妹に書いて送ったのですが、手持無沙汰このうえありません。

そのガッカリぶりを見て、
「私の持っているインド綿を使ったらどう?」
と提案すると、俄然、元気が戻ってきました。

昨日から、日曜は休むと宣言していたのに、今朝は朝食のあと、メガネをかけて待っています。もんぺを裁つつもりです。迷いましたが、
「じゃあ、裁つ?」
と提案すると、もちろん二つ返事です。
床に布を広げて切ろうと思っていましたが、それでは椅子に腰かけることしかできない母が参加できないので、布を二つ折りにして、食卓で裁断です。


もんぺ布のほかに別布を、ポケット、居敷当て、ひざ当てなどとして裁ちます。


裁つだけで、今日縫うつもりはありませんでしたが、ポケット口に待ち針を打つなど、母は仕事を続ける気満々です。
というわけで、とうとう昼から縫うことになりました。

「私、日曜はお休みなのよね」
「そんな。勝手にやってんだから、いつ休んだっていいじゃない」
そんなことできませんよ。お母さん。
「身体が大変だから、草刈りなんかやめればいいじゃない」
そんなこともできませんよ。お母さん。


老母と地頭には勝てません。
縫いはじめてしばらくして、
「ちょっと休憩するね」
「あらっ、老人みたいね」
十分老人ですよ。お母さん。



居敷当てに待ち針を打ちながら、
「ほら、私が縫い縮めるって言ったのにアイロンで済ませるから、合わなくなっちゃったじゃない」
と、母。
「そんなはずないでしょう、貸してみて。あらっ、最初の合わせ方がまずかったのよ」
と、私。
などなど、一つの舟に船頭二人では、なかなかスムーズにはいきません。
それでも、もんぺ二本のポケット口を縫うところまで行きました。まあ、面倒なことはだいたい終わった感じです。

妹が、身体の弱った母に縫物を頼むのも、私がそれを手伝うのも、どちらももしかしたら親孝行なのかと、汗を流しながら思った一日でした。

2 件のコメント:

昭ちゃん さんのコメント...

「絣のもんぺ」
戦争末期ほっぺたを真っ赤にした女工員さんたちを思い出します。
私は軍需工場に配転になりましたが、
ほとんどが新潟の親元を離れて上京していました。
もんぺの型にもいろいろあるようです。
心配な親たちはイナゴの佃煮を送ってきました。
「昭ちゃんたべりー」うれしく悲しい67年前の思い出です。
そのころからもう呼び名は昭ちゃんでした。

さんのコメント...

昭ちゃ~ん
このくそ暑いのに、もんぺで四苦八苦しています。まだできないのに妹から布が届きました。
どうしよう。私はもちろん母も困っています。だって、合計16メートルもの布が届いたのですから!
母も、妹も、そしてたぶん私も非常識ですね。もんぺを合計18枚縫うかどうしようか悩んでいるなんて!