2017年7月19日水曜日

飾り棚の住人(五)


土間入り口の右の棚の真ん中には、おもにガラスと、金属のものが置いてあります。


ゼリーの型です。
『びんだま飛ばそ』(庄司太一著、PARCO出版、1997年)を見ると、ゼリーの型は、戦前戦後に家庭でよく使われたと書いてあります。
使われていたとしても、私より一世代か二世代前だと思いますが、私は小さいころ、その名残でさえ、一度も目にしたことはありませんでした。
どんな家庭で使われていたのでしょう?
ちなみに、かき氷を盛る、脚付きのガラスの器は、実際に使ったことはありませんが、祖母の実家に残っていました。


この棚には飾っていませんが、金魚のゼリー型も持っています。
涼しげです。


ゼリー型に比べると、染粉のビンは、小さい頃は馴染みのものでした。
昔は、どこの家庭にも当たり前に染粉が置いてあって、毛糸や着物を染めて、編みなおしたり、仕立てなおしたりしていました。
左が「あさひ染」で、右が「京染」のビンです。
「都染め」というメーカーが一番の馴染みで、祖母などは「都染め」を染粉の代名詞にしていたほどでした。


医院や病院でくれる、塗り薬の容器です。
蓋は被せるだけですが、ぴったりはまります。いつ頃使われたものでしょう?


コバルトブルーのビンも、軟膏入れだと思います。

以上、ガラスは金魚のゼリー型を除いて、全部おもちゃ骨董のさわださんから来ました。さわださんとは15年ほどのつき合いですが、目薬のビンなど、まだまだ、こまごまとあります。
そういえば最近は、さわださんはあまりガラスを持っていないでしょうか。それとも、相変わらずガラスを持っているのに、私が関心をなくしているのでしょうか。何年も買っていない気がします。

金魚のゼリー型は、近くの骨董市には出店しなくなったため、何年も会っていない骨董屋のがんこさんが持っていたものです。
がんこさんは月に一度、車で40分ほどのところでは出店しているのですが、果てしなく遠い。なかなか訪ねることができません。
  

石かガラスを切ってつくったスイカです。
内側が赤くて、まわりが白っぽい。そんな誂えたような色をした石があると思えないのですが、二、三あった中から一番スイカらしいのを選んで買った記憶があるので、もしかしたら天然石かもしれません。


ままごとのピッチャー。
スイカとピッチャーは、メキシコのものです。


インドの木彫りの蓋物、紅入れです。
あの、眉と眉の間にぽちっと色をつける、紅粉を入れます。今は、色粉を使わず、朝起きたら、おでこに丸いシールも貼る人もいます。
指で塗るときは、もちろん正円を目指すと思いますが、真ん丸のシールを貼ると、丸すぎて、下手に目立って、なんだか間が抜けて見えます。

そういえば、これはカルカッタ郊外に住んでいる友人の家の近くの何でも屋さんで買ったのですが、最近はそんなちまちました店はなくなり、土人形やプージャーの飾り、そしてこんなものは見かけなくなっているそうです。


ガーナのブロンズ(青銅。銅やすずなどの合金)の分銅です。
ガーナの海岸線はその昔、港から金を積みだしていて、ゴールドコーストと呼ばれていました。その金を計るため、単純な形の分銅を使っていましたが、やがて遊び心が芽生えて、人や動物を写した、いろいろな形のものがつくられるようになりました。

蝋型という技法で鋳込んであります。
つくり方は、まず蜜蝋で、つくりたいものの形(原型)をつくります。それに、鋳込むときに必要な湯道をつけて、土で湯道ごと、厚く包みます。
湯道というのは、プラモデルを例にとると、部品と部品をつないでいる部分です。プラモデル制作には必要のない捨てる部分ですが、それを通って、溶けた材料のプラスティック(金属の場合は地金)が、必要な部分に運ばれます。
鋳物は、湯道があって初めて、成形できます。

蝋型は、原型を包んだ土が乾いたら、湯道を下にして、火で熱します。すると中の蝋が溶け出して失われ、つくりたい形が、焼いた土の中に空洞として残ります。
ガーナの場合は、この工程に大きめの七輪を使っていました。

ブロンズの融点は約1200度、通常、ブロンズの鋳物をつくるには、火を高温に熱する装置と、金属を入れておいて溶かす鍋、すなわち高温に耐える坩堝(るつぼ)が要ります。
そのため、鋳物の町川口などでは溶鉱炉を持ち、焼けた坩堝をクレーンで吊り上げて動かしたりしていますが、いったいガーナの村では、どうやって鋳物をつくっているのだろうと、私はガーナのクマシに住みはじめたときから、知りたいと思っていました。
そんな話をしていたので、クマシで隣に住んでいたアメリカ人の友人ジョーンが、市場で行商人が持っていたからと、小さな坩堝をくれたこともありました(失くしてしまいましたが)。

やがて、鋳物づくりの村を訪ねて、鋳込んでいるところを見る機会がやって来ました。
彼らは地金を包んだ型と、蝋を抜いた型を、土でピーナツのような形にくっつけたものを、七輪の上に立てて、その前に座り込み、ふいごを使いながら温度を上げ、長い時間をかけて、上部の地金を溶かして下部の空洞に落とすという、坩堝がなくてもできる方法で鋳込んでいました。
目からうろこ、そんな方法でできることを、初めて知りました。


こちらは、タイ北部(ビルマの一部を含む)のランナータイと呼ばれる地域の、アヘン用の分銅です。
やはりブロンズですが、亜鉛も含まれているのか、ちょっと黄色味を帯びています。
ガーナの金用の分銅も、タイのアヘン用の分銅も、台の裏に続いていた湯道をつけていたものを、切り取って仕上げてあります。


これは、マレーシアのクアラルンプールに本社を置く、世界最大のピューターの会社、ロイヤル・セランゴールの蝋型でつくった鶏です。
ピューターはスズを主成分として、アンチモンや銅を加えた合金ですが、融点は250度です。
ガーナの分銅は、近年は真鍮(黄銅)のものもつくられていますが、真鍮はブロンズより融点が低いとはいえ800度、ピューターは、けた違いの扱い易さです。 








2 件のコメント:

hiyoco さんのコメント...

都染めって繊維用の染料だったのですね。Shigeさんが最近都染めの陶器を拾われて、てっきり白髪染めだと思っていました。
ビンディーってもともとは硫化水銀なんですね。それを毎日おでこに付けて大丈夫なんですかね~。
ブロンズの分銅、いいですね!地金と型をくっつけて落とし込む方法も面白いですね。いろいろ考えるなぁ。
私は小学生の時、友達と3人で理科の先生の指導の下(公立の小学校なのに専任の理科の先生がいた!)、砂鉄から鉄を作る自由研究をやりました。暑い時期にストーブ点けて砂鉄を溶かそうとしたけどだめで、結局ニクロム線を埋めるとその周りで固まった、という実験結果だったと思います。でも今調べたら鉄の融点って1500度ぐらいなのでニクロム線がそんな温度になったのかは疑問。先生のアイデアに便乗してばかりで先生にすごーく怒られた記憶しかありません。

さんのコメント...

hiyocoさん
確かに、「○○染め」はビンの大きさといい、今だと白髪染めくらいしか思いつかないでしょうね。どの家にも毛糸や布を染める染料があったなんて、ちょっと不思議かもしれません。時代は、いろいろな面で変化しているけれど、小さな変化は歴史に埋もれていく、そんな感じがしました。オーバー(笑)。
硫化水銀、やばいでしょうね。パウル・クレーもいい「赤い絵の具」が欲しくて自分で練っていて、水銀中毒で死にました。
hiyocoさんは、小さいころから科学女子だったんですね。私は、ぼーっとしていました。鍛冶屋さんには友だちがいて、よく遊びに行っていたけれど、冬は暖かくていいなぁと思ったりして...(笑)。

実は私は学生の時、鋳物を専攻していました。型が冷たいままで熱い金属を流し込むと割れるので、型を熱く焼くために、窯焚きの日は始発で学校に行き、門が締まっているのでよじ登って超え、工場に入り込んで火をつけていました。土はあたたまるのに時間がかかって、そうしないと大きいものだと夜までに鋳込むことができませんでした。もちろん溶けた地金をすくって流し込むのは熟練の先生方ですが、窯焚きの日は達成感があって最高、毎日、灰まみれでした(笑)。
ガーナの村に見に行った時も、わりと朝早く行ったと思いますが、職人さんはずーっとふいごを動かし続けていて、単調なの何のって。時間がかかるのです。夜になって仕方なく帰りましたが、型を割るところまで見ませんでした。もっとも、型は冷えてから割ります。
石文化は青銅器文化に負け、青銅器文化は鉄文化に負けてしまいましたが、物語など読むと、鉄器製造は長い間秘密だったようですね。