2018年5月3日木曜日

内職

『文明開化がやって来た チョビ助とめぐる明治新聞挿絵』(林丈二著、柏書房、2016年)は、開国で入ってきた西洋文化が、東京を中心とした町に住む人々にどう浸透していったかを、明治の新聞を通して読み解く本ですが、この本の中で紹介されている、貧乏人の内職は二種類です。

一つは早附木の箱(マッチ箱)つくりで、もう一つはハンケチ(ハンカチ)の縁かがりです。
それまで、竈の火をつけたり、タバコの火をつけたりするのは火打石でしたが、マッチが登場し、急速に普及します。

明治9年には、東京で最初のマッチ工場ができました。そのマッチ工場は、明治11年には女職工を200人も求める新聞広告を出していますが、それだけでは間に合わないのか、マッチの箱の組み立てを、内職に出しています。


マッチ箱を組み立てる内職をしている親子5人家族を訪ねた右の人物は、マッチ工場の人なのでしょう、左に、これから切り貼りして箱にする、長い経木が見えます。



これも、マッチ工場の人が長屋に来て、出来具合を見ているところです。
上が、明治14年、下が30年、16年も経っていますが、事情は同じようです。
男性が、先の丸い、こっぽりのような下駄をはいているのが、ちょっと気になります。このころ流行ったのでしょうか?


マフラーは手ぬぐいの延長か、早くから、主に男性に取り入れられたようですが、ハンケチが新聞紙面に現れるのは、それに遅れること10年、明治19年ごろです。
最初、若い男女がおしゃれ心で首に結んだようですが、見苦しいことと批判されています。やがて、老若男女、紳士までも首にハンケチを結ぶようになりましたが、明治34年の「中央新聞」に、「僕の知っている西洋人は非常にこのことを笑っておった」と投書が載ったころから、ハンケチを首に巻いた挿絵は見かけなくなったそうです。

ハンケチは、首には巻かなくなってからも、汗や涙をふくだけでなく、船を見送るときや自転車を走らせるときに振ったり、泣くとき口にくわえたりと、手ぬぐいに代わるハイカラな小道具として、大いに広まりました。


そのため、ハンケチの縁かがりという内職が生まれました。

私が小さいころは、学校へ行くときもハンカチは必需品でした。縁は手でかがってあったと思いますので、ハンカチの縁かがりの内職は、明治から昭和へと、延々と続いたのでしょう。

さて、「貧乏人の内職」と聞いて、真っ先に思い出すのが、江戸末期の落ちぶれた武士の傘貼りです。
でもそれって、映画やテレビドラマによってつくられた、お話なのでしょうか?


読んでないのでわかりませんが、こんな本も出ているようです。


古い絵も探してみたけれど、これだけではよくわかりません。

私が小さいころは、内職はとても盛んでした。
ハンカチの縁かがりは続いていたことでしょうし、小さな部品の組み立て、紙箱組み立て、造花づくりなどなど、いろいろあったと思いますが、内職の代表的なものとして知られていたのは「袋貼り」でした。
ビニール袋出現の前、紙袋はあらゆる包装に使われていて、新しい紙でつくる袋も、新聞紙などでつくる袋も、すべて人手で貼られていました。


これは、「サザエさん」の漫画ですが、指導に来た人から、家族みんなで内職の袋貼りのやり方を学んでいる一コマです。

さて、今の内職事情はどうなのでしょう?


ネットで探してみると、地域特産品の手づくりの部分を担うものなど、内職の需要もいろいろあるようでした。






4 件のコメント:

Bluemoon さんのコメント...

春さん、こんにちは。
友達が高校生の時に学校で職業適性テストがあったようです。適職は“傘貼り”だったようです(笑) 可笑しいですよね。「今の時代、誰が傘貼りするん」と笑っていた友達の職業はステージ衣装デザイナー兼縫製です。確かに器用です。

猫の飾り物のことで、お尋ねしたいことがあります。近日中に、写真添付のメールを送ります。よろしくお願いします。

さんのコメント...

Bluemoonさん
傘貼りが適職なんて、いいですね。私も適職テストを受けてみたいです(笑)。
友人の息子さんは吟遊詩人になりたいというので、「今のご時世で?」と笑っていましたが、音大を出て音楽の仕事をしています。

猫の飾り物のこと、メールを待っています。

昭ちゃん さんのコメント...

 興味深々の絵ですね、有難うございます。
裏長屋は5軒ぐらい繋がって共用の水道があり
鍵は各家で持っていました。
別に汲み上げ井戸も、、、
東京は水が悪く(鉄分が多く)下げた袋がさび色でした。
 長屋の壁が破れ桟が見えていますね、
人前で乳を飲ませる時代です。
 対話中の女性が襟に片布を、、当然ですよね。
男性もこのような下駄を履いたのですね、
雨上がりかな。
 私たちの時代は長封筒張りでしょー
赤ちゃんはぐっすり寝ていますね、
障子にも補強が興味深々です。
私たちの時代は
「ハンカチーフ」なんて呼んでいました。

さんのコメント...

昭ちゃん
このころの新聞は絵入りで、しかもリアルに表現する優れた絵描きさんが色々いたようで、面白いですね。祖母は新聞を読むとき、音読したり、音読しないときも唇を動かしていました。新聞をみんなで共有していたということでしょう。
井戸の口につけたごみ除けの布袋、確かによく鉄で染まっていましたね。でも関東大震災も東京大空襲も井戸があったのでその後の生活が容易だったと聞きました。
明治の新聞には長屋のどぶ板がよく描かれています。下半分しかない手洗いも。

ハンカチは、明治の新聞には「ハンカチーフ」か「ハンケチ」しかないそうです。ヲーテコロリンはともかく、コフェーやチョコラアトやココヲーは今よりずっと発音が近い感じがします。

どこにでもあった「帽子置き場」や「帽子掛け」の絵も出てきて、そういえば、純日本家屋の祖父母の家にも、帽子掛けがあったのを思い出しました。
断髪後、男性はよく帽子をかぶっていたようで、私の祖父も、夏は麻の白い背広にパナマ帽をかぶって自転車に乗り、舗装されていない道路を走っていました(笑)。